二胡草子

知るほどに面白い二胡の歴史

二胡の前身は中国東北地方の楽器、奚琴
『楽書』奚琴
『楽書』奚琴

二胡は、中国の唐宋時代に流行した「奚琴」と呼ばれる楽器が発展したものだとされています。当時は漢字の発音も異なるものだったと思いますが、現代中国語で奚琴は「シーチン」と発音します。日本語で読むなら、「けいきん」となるでしょうか。

奚琴に関する記述は、中国福建省出身で南宋の人、陳暘(1064年-1128年)が記した『楽書』に見られます。日本で言うと平安時代後期の頃の人ですね。このシーチンの画も『楽書』に残されたものですから、今から900年ほど前に描かれた画ということになります。『楽書』では、「奚琴とは北方の辺境に住む民族・奚族の楽器で、竹で二本の弦の間をこすって演奏する弦楽器」、とあります。弦の間に弓を入れ込むという奇抜な発想は、この奚族の皆さんによるものだったわけです。

奚族は唐から隋、更にその昔に遡る中国南北朝時代(439年-589年)ごろから、内モンゴル自治区の赤峰市から東北地方へ流れるシラムルン川流域に住んでいた民族で、のち唐王朝の滅亡後に突入する五代十国時代(907年-960年)には契丹(きったん)人の征服下に入り民族の同化が進みます。その契丹人もこの後、金国を建て清朝の主となる女真(ジュルチン)の民族に取り込まれましたから、時々「二胡は満州あたりの楽器だったんでしょ?」と耳にするのはこういう経緯からです。

韓国に二胡とよく似た楽器があるのをご存知でしょうか。ヘグムと呼ばれる楽器です。実は「ヘグム」とは「奚琴」のハングル読みで、現代でも漢字表記は「奚琴」です。奚族の暮らした地域である内モンゴル、吉林、遼寧、そして朝鮮半島にはこのように奚琴の名残が感じられる楽器をいくつか見つけることができます。

でも、二胡の「胡」は西方のペルシアを指し、シルクロードを渡って中国に伝来した、というお話もよく聞きますよね。ですが私はペルシアとかイランのあたりの事情はよく知りません。「胡」には確かに西方の異民族という意味もあり、かの地は東西の弦楽器の発祥の地とされていますが、それを理由に簡単に「二胡はペルシアから伝来したのだ」、と断定してしまうのは少し強引な気がします。でももしそうであれば非常に雄大な話で、ロマンを感じますね。確実なのは、竹を弦の間に挟んで演奏する奚琴という楽器が昔中国の内モンゴル~東北地方に存在し、それが二胡の前身だとされている、ということです。

北宋の大詩人・欧陽修の詩の中に、奚琴を詠んだものがあります。詩中の「胡」は、ここでは北方の異民族の意味、奚族の皆さんを指しています。「奚奴」とあるのは、欧陽修の時代に奚をはじめ北方の異民族の人々が奴隷として苦役に従事したため、蔑称として用いられたものです。彼らがふるさとの楽器を爪弾き、涙する様を詠んだ詩です。補足として、中国語の「弾」は弓で弾く動作を指しませんから、この時は竹あるいは手で弦をはじくように弾いていたことが想像されます。

奚琴本出胡人楽,奚奴弾之双涙落…

蛇足ですが、私は中国滞在期間中に、内モンゴル自治区・赤峰市を訪れたことがあります。赤峰のある農村では日本政府のODAによるマイクロ・クレジット案件(農民の自活を促す小額融資プロジェクト)が実施されていて、その調査で行かせていただきました。当時は赤峰から流れるシラムルン川の流域が二胡のふるさととは知らずにいましたが、この文章を書いているいま、改めて二胡との縁を感じています。

南宋朝廷オーケストラに11名の嵆琴奏者が

唐代から宋代(960年-1279年)に移り、奚琴という呼び名はだんだん失われ、「嵆琴」という呼ばれ方に変わっていきます。というのは、奚族は宋に入る前の五代十国時代、契丹人に征服されてしまった経緯から、人々の間で「奚」の字が卑しいイメージを持つようになってしまうからです。「嵆琴」は日本語発音だと「奚琴」と同じ「けいきん」、現代中国語では「ジーチン」と発音しますが、当時は中国語でも奚琴と同じ発音だったのかも知れません。

胡琴奏楽図
甘粛の莫高窟の一部・楡林石窟に描かれている壁画『胡琴奏楽図』

宋の時代になると「嵆琴」の普及度は高まり、「南宋教坊大楽(南宋朝廷オーケストラ)に嵆琴奏者11名が在籍した」、と耐徳翁著・『都城記勝』という書物に記載があります。一体どんなオケだったのか、少し前に流行した女子十二楽坊と対決させてみたいですね。

日本が誇るバイオリニストの五嶋みどりさんが、10代のころバーンスタイン/ニューヨークフィルとの共演のステージで、曲の途中で弦が切れてしまったにも関わらず最後まで曲を弾ききってみせた、という逸話を中学校の音楽の授業で習いました。実はこれに似たエピソードが宋の時代にも有りまして、徐さんという嵆琴奏者が宮廷で演奏中一本の弦を切ってしまったが、残る一本で最後まで弾き終えた、というお話が瀋括著・『補筆談・楽律』の中で紹介されています。

これは中国では「一弦嵆琴格」のエピソードとして有名ですが、一本の弦で曲を弾くにはかなり高度な演奏技術が求められますので、この宋の時代にはある程度の演奏技術が確立していた、と読み取ることができます。 また、同じく瀋括が記した『夢渓筆談』には、「馬尾胡琴隋漢車,曲声猶自怨単於。彎弓莫射雲中雁,帰雁如今不寄出。」とあり、この頃には既に馬の尻尾を弓に用いていたことが分かります。

この後に北宋が滅び、元の時代(1271年-1368年)に渡って「胡琴」の呼び名が広まります。ここで、やっと「胡」の漢字がこの楽器に初めて使われるという歴史的な変化が有ったわけですが、これはどうしてなのでしょう?実は、北宋を討った金の国や元王朝の頃、中原地域の人たちは、北の異民族である契丹人や女真(ジュルチン)族によって中原地域へもたらされる物や人によく「胡」の文字を付けて呼んでいました。胡人、胡楽、胡曲、そして胡琴、のように。こうしたことからも、「二胡の’胡’の字はペルシアを指す」とする、なぜか日本で主流となっている説は根拠に乏しいと言わざるを得ません。おそらく、楽器の起源とされる何かがペルシアから東西へ伝わり、奚琴やバイオリンを含む多くの弦楽器の発想を呼んだ、というのは紛れもない事実なのだと思いますが、二胡の「胡」の字は中原の人々が長城の向こう(北)側をあらわす時に用いたもの、というのが中国で為されている一般的な解釈です。

江南の芸能楽器として南胡が派生し「二胡」となった
二胡(胡琴図)
元朝末年の南劇『琵琶記』(下に胡琴の図)

明、清時代になるともう「おーい竜馬!」の時代ですから、少し身近に感じられますね。この頃、胡琴は長い時間をかけて華南華北地方に広まり、各地方の独特な形式の劇中で伴奏楽器として使われるようになってきます。こうした使われ方をする中で、胡琴はそれ自体の大きさや、振動板の部分を皮や膜にするのか板にするのかなど、地方劇の特徴によって各地で独自の進化を遂げていき、それぞれの名称で呼ばれるようになります。京劇が盛んな地域では「京胡」に、粤劇が広まった広東では「高胡」に、というように。そして今の江蘇省をはじめとする江南地域においては、「南胡」として発展します。

この「南胡」が、その美しい音色と豊かな表現力を兼ね備えた楽器として全土に広まり、現在の「二胡」という呼ばれ方をするようになります。そして1900年代には演奏法の大きな変革期が訪れ、二胡を学べば必ず知ることになる劉天華さん(1895年-1932年)によって、西洋楽器のテクニックが取り入れられ、左手のポジションの概念も確立されました。二胡の演奏音域も大幅に広がり、伴奏楽器としての二胡がソロ楽器としての地位を高めていきます。

1950年-60年代には、王乙さん、項祖英さん、張鋭さんなど今でも有名な先生方が現れはじめます。二胡は現在もすさまじいスピードで発展し続けており、超絶技巧をふんだんに盛り込んだ楽曲もたくさん作られています。2000年代からは日本でも急速に普及し、いまでは多くの日本人が二胡で日本の音楽を楽しむようになりました。まだまだ未知の可能性を秘めている二胡、これから日本ではどのような発展の道を辿るのか、楽しみでなりません。

長文乱文、ここまで読んでくださりありがとうございました。これらの歴史背景を感じながら二胡を弾けば私は、唐の時代に東北の大地で奚琴を鳴らしていた人々との繋がりが感じられ、手の中の二胡が悠久の時空を超えてやってきた友人のように思えてなりません。

2013年3月 原田

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